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send 繰り返されるNTT再編バトル 制度改革“対症療法”もはや限界

2015年4月22日 水曜日

  bsj1504220500002-p1   「これで行けますね」   1996年11月下旬、JR新橋駅近くの新橋第一ホテル(現第一ホテル東京)の一室。郵政省(現総務省)電気通信事業部長の団宏明(67)、事業政策課長の小笠原倫明(61)=現大和総研顧問=と机を挟んで向かい合っていたのは、NTT副社長の井上秀一(77)と常務の木塚修一(73)だ。15年近く続いた郵政省とNTTの“再編バトル”がようやく決着した瞬間だった。   「俺にケンカさせろ」
  82年、土光敏夫氏が会長を務めた第2次臨時行政調査会は「日本電信電話公社を5年以内に資本分割すべきだ」と答申した。それを受け、郵政省の電気通信審議会は電電公社の民営化で85年に発足したNTTについて、資本分割を前提に、JRのように地域ごとに再編する案や市内・市外で事業会社を分離する案を当初示した。これに猛反発したのが、90年にNTT社長に就いた児島仁(84)だ。   「おまえらはケンカが下手だ。俺にやらせろ」   児島は自らも、郵政省との折衝に打って出た。電電公社時代の若いときには上司に対しても物おじせず意見をぶつけ、「電電公社始まって以来の乱暴者」(NTTのOB)と評された児島は、経団連や自民党議員を味方につけ、郵政省が進める再編案に真っ向から反対した。   折衝に当たった電気通信局長の五十嵐三津雄(75)は、北大出身の児島の後輩に当たる。五十嵐は「当時報道されたほど、激しく対立したわけではない」というが、それでも児島はかたくなだった。児島の秘書を長年務めた村尾和俊(62)=現NTT西日本社長=は「児島社長には『分割されると研究開発力が低下し国際競争力が落ちる』との信念があった」と打ち明ける。   潮目が変わったのは95年。児島が会長に退き、後任の社長に技術系の宮津純一郎(79)が昇格した。電気通信局長も五十嵐から谷公士(74)に交代した。国内では通信自由化後に誕生した新電電各社がシェアを広げ、欧米では米AT&Tや英BTなど巨大企業が世界市場に勢力を広げていた。NTTや郵政省にも「いつまでもいがみあってはいられない」(小笠原)との焦りが生じていた。   団と小笠原が宮津に妥協案として提示したのは、まだ商法では禁止されていた純粋持ち株会社方式によるグループ経営だった。当初は難色を示した宮津も「資本関係を維持できるなら」と郵政省案をのんだ。しかし、小笠原は「それからが大変だった」と振り返る。   当時、持ち株会社は戦後の財閥解体後に禁止されたままだった。公正取引委員会での議論も停滞気味だったため、郵政省はNTTの持ち株会社化の前に立ちはだかる壁を特別法で乗り越えようと考えた。ただ自民党の重鎮、山中貞則元通産相は「NTTだけに認めるのはまかりならん」とクギを刺した。小笠原らは特別法を諦め、公取委を促して独占禁止法と商法の改正にこぎ着けた。   持ち株会社化に不可欠な連結納税制度も未整備だった。小笠原は大蔵省主税局に頼み込み、閉会していた自民党の税制調査会を97年1月に再開してもらい、強引に制度化の道筋をつけた。宮津に「資本関係を維持した持ち株方式」をNTT再編の条件として突き付けられていた小笠原は「今思えば、綱渡りだった」と笑う。   97年の通常国会にNTT法改正案など4法案を通過させた小笠原の豪腕は、霞が関や永田町に知れわたり、後に総務事務次官へと上り詰めた。   収益減の固定電話
  NTTの資本分割に徹底抗戦した児島は、後に発刊した自叙伝『怒りを発するものは愚か』の中で「上司にめぐまれ、優秀で層の厚い部下たちに支えられ、部外周辺の人々に助けてもらった」と当時を振り返っている。その上で「社長を辞めた時、『あ、俺のエネルギーの総量が尽きた』と体感した」と記した。郵政省との直接対決に児島は精力を使い果たしていた。   政官民の思惑がぶつかり合ったNTT再編だが、その後も競争政策が見直される度に再々編が議論の俎上(そじょう)に載り、政官民のバトルが繰り返されている。竹中平蔵総務相が2006年、NTT法廃止や持ち株会社廃止による抜本的なNTTの再々編方針を打ち出したこともある。   再編の骨格となった東西地域会社の固定電話事業の収益は、2000年度の2兆6000億円から13年度には7300億円まで減少した。携帯電話事業のNTTドコモは13年度の通信サービス収益が2兆9500億円となり、携帯電話が固定電話に代わる通話手段になって久しい。インターネット技術を使ったIP電話も徐々に増えている。“対症療法”の制度改正は、もはや限界を迎えている。(敬称略、年齢は現在)    
 

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